近しい人が亡くなった。どのように近しいか、近親者ではない。無論、お互い知り合いだ。会話もしている。しかし、それほど深い話をしたことはない。それでも、近しい人という表現が適切であり、久しぶりに号泣した。その方も私も、似たような境遇にある。
我々は、全くお金にならない責務を担っている。多くの方々の生活を守り、まさに重責と言ってよい。自分のプライベートの時間を犠牲にし、同僚や世の中のために身を粉にして働く・・いや、お金にならないので労働ではない。まさに、「尽くす」という表現だろうか。
我々が尽くさず、手を抜き結果的に負ければ仲間の生活が困窮するから、手を抜くことは困難だ。命のやり取りはないにせよ、戦争だ。自分の立場を危うくしながら、仲間の先頭に立ち、巨大な力と戦う。鬼滅の刃の鬼殺隊であり、進撃の巨人の調査兵団だ。決定的に違うのは、実際に命は奪われないということ。私も昇進しないだろうし、ある意味、家族も犠牲にするし・・・・・そんな我々だ。
その方は、病気になり亡くなった。子供はまだ自立まえだ。なぜ、病気になったのか?それはストレス、あんな重度のストレスを長年喰らえば・・・私の場合は、このブログにも書いているが、今はヘルプカードを持ち歩いている。運よくと敢えて言うが、身体が弱いから、皮膚や角膜がやられたくらいで済んだ。これが、実感だ。しかし、その方は・・・
悲報を聞いたとき、思わず、「報われない」と言葉を漏らした。そして、私も命を懸けているんだと改めて自覚した。自分の命、人生、妻・・・・何を大切にしてきたのだろう。危うく、死んでしまい、近しい人に「報われない」思いをさせてしまっていたのかもしれない。
残された言葉
後になって聞いたが、闘病生活の中でその方が残した言葉。
「また、生まれ変わっても同じような生き方をするよ。全く後悔はない。」
明るく、元気な姿を思い出し、泣けてくる。私には、当事者の心境は分からない。分からないが、この言葉を聞いて思ったことがある。それは
”人のために生きると、その命の価値は、自分の手を離れ、人に広がって行く。”
私の命は、一体何のためにあるのか?何のために私は生きているのか?真剣に考える機会となった。
マルティン・ニーメラー牧師の言葉
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。 私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった。 私は労働組合員ではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
動き出す世界の潮流は止められない
ニーメラー牧師の言葉、私なりの解釈は、「世界の動きは止められない」だ。平和に関して言えば、「一度戦争が起きてしまえば止められない」ということは、ロシアとウクライナの件で改めて明らかになった。そして、犠牲になるのは、我々一般人だ。
少しだけ、横道に逸れる。ロシア・ウクライナの報道を見て、改めて、思い知らされることが沢山あった。先の大戦で日本が受けた数々の空爆や原爆投下は、「戦争」ではなく「大量虐殺」だと気づかされる。また、戦争はどうであれ、加害、被害があり、犠牲者は我々一般の人々だ。改憲を狙う自民党だが、かつては戦争経験した野中広務氏や中曽根元総理も、「戦争は絶対悪」という信念が根底にあった。好き好んで戦争はしない。軍拡も平和維持のためだ!という平和構築の理屈に対し、戦争経験がある政治家は「戦争絶対悪」が根底にある。今思えば、この思想が今まで日本を戦争から遠ざけていたのかもしれない。逆に言えば、これからは、戦争に近づいていくことを意味している。
話を元に戻す。我々には世界の潮流は止められない。仮に、これが前提条件だとして、それでもなお、諦めたら、帰結する結果は100%、負けになる。しかし、最後まで諦めないとしたら、そこには、かすかな奇跡が生まれる余地がある。いや、過去に多くの方々が亡くなっていった。歴史は、その亡くなった方々の上に成立していると言っても過言ではない。今を生きるものとして、受け継いだ教訓を次へつなげるとするなら、我々は諦めなず、最後まで手を打ち尽くす。この姿勢で生まれたものが、過去の戦争における反戦文学であり、上の牧師の言葉なのだ。
問われるのは、生き様だ
憲法にある不断の努力という言葉を噛み締めてみたい。いや、少し斜めからの発想で捉えてみたい。日々の経済活動、平和の維持、民主主義の維持発展・・・我々の1人1人の命は、実に多様なものを日々生み出し、複雑で重曹な営みを行っている。だから、人の命は尊いし、どこまで行っても個人が尊重される世の中が前提であるべきで、日本国憲法でも個人の尊重が最も重要視されている。日々、頑張る我々国民に対して保障してくれている個人の尊重と捉えてみたい。憲法の出自の問題とは別に、ここは理解すべきだ。
個人が大切だという前提の中で、人のために、社会のために命を燃やす人が存在する。自分の命を人のために使う、思いの方向を他人に向けるとき、その人の命は「生き様」として他人の目に映り、そして心に残る。
私は、こんな世界にしたいと願う。そのために、出来ることを、出来る範囲で・・いな、全力で、手を打ち尽くす。私が死んだとき、私の近しい人たちが、悲しまないのがきっと理想なんだろう。