齢も40半ばとなり、身体、精神共に健康を維持することが困難になって来たと感じます。右目の視力が出ていない、左目も緑内障のリスクがある、つまり、視力が出なくなるというリスクを抱える私にとって、日々を乗り切る肉体、及び精神をどう構築するかは、死活問題です。。いや、このような思考自体がナンセンス・・・というのが、今回の話の主題です。
最近、自分が何者なのか?どうありたいのか?どう生きたいのか?こういった問を、より深めて、哲学や宗教といった分野への造詣を深めて行くことが必要だなと感じ始めていました。残りの命=時間を、どう使って行くのか?自分の価値は?生きるとは?といった根源的な問いと共に、自分の今の歩みを進めて行かなければ、どうも精神のバランスが維持できないと思うようになりました。
不安の根源 ロシアのウクライナ侵略
急に大きな話になってしまいますが、日々自分が抱える不平不満、そして不安の原因は、実は世界と繋がっていることを最近実感しました。コロナ禍で自殺者が増えたように、我々は社会の生き物です。最近、私が強く不安を感じ、宗教や哲学に触れたいと思ったことも、今起きている世界情勢が関係していると思うのです。
この瞬間も、罪のない人々の命が脅かされ、奪われています。いつの時代も、戦争の被害者は権力を持たない市民たち。今回、戦争の状況が克明に伝えられています。多くのメディアがプロパガンダまみれの報道を行い、戦時のメディアの特性も目の当たりにしています。なるべく正確な情報を知るために、実に様々なメディアから情報を仕入れています。tiwtterを始めとするSNSや、多くの報道番組。決して一つではいけないのです。
言いたいことが逸れてしまいました。一番言いたいことは、私の恐怖の根源は、世界が着目し、世界が止めようとしているにも関わらず、戦争は止まらないということ。このことも、戦争は起きたらおしまい・・・過去の教訓です。それが、目の前で起こる。本当に戦争は止められない。目の前で人の命が奪われて行く。戦争が起きるロジックも明らかなのに、そして、備えたパワーバランスも機能せずに。
いくらなんもで、戦争はしないと思っていました。しかし、今はどうだろう・・・生物兵器、核の使用・・・最悪のシナリオが頭を過ります。そして、日本に置き換えて備えなければと思う。どう??軍拡?9条改正?自衛隊を軍に?明らかに潮目となったのです。平和を守るために、どうするか?を日本国民は考える必要があり、これから、いついかなる時も、平和を守ることを頭の片隅に置いて、生活をしなければなりません。
平和の重要性を、痛感し、そして、平和は何と心穏やかでいられるのか。その逆で、平和が脅かされると、人々は不安に苛まれ、通常な判断ができなくなる。そして、負の連鎖に陥り、歴史は繰り返すことになる・・・
このような根源的な不安に苛まれながら、自分一人分の不安とも向き合っていると言えます。そして、こういった不安に負けないように、平和な世界を創ろうと悪戦苦闘している気がします。
不平、不満だらけの日々
ここで、また、私個人の話に戻します。私は、目が見えないハンディを負っています。これを受け入れているつもりです。でも、ふっと葛藤が生じます。趣味の車を手放し、運転もできず、通勤に片道2時間弱。月に150km程歩き、足にマメをつくり、足腰に痛みを覚える。過去の健康だった自分、過去の記憶が邪魔をします。もっと目が見えていたら、もっとお金があったら・・・
そんな状況でも、仕事は前向きに新たなものを創造しています。でも、周囲に不満を持ってしまうのです。こんな体にハンデを持っていてがんばっているのに・・・周囲はなんだと。
それでも、失敗や至らない事態については、人のせいにせず、全て自分の責任に置き換えています。自分は変えられても、他人は変えられないですから。また、パラリンピックの創始者であるルートヴィヒ・グットマン博士の言葉
“失われたものを数えるな。 残されたものを最大限に生かせ。”
も肝に銘じています。私は自分の時間を基本、他人のため、社会のために捧げる仕事に就いています。決して自己中ではないです。しかし、容易に、自分に無いものを憂い、不安に陥ってしまうのです。
「不満とかないのですか?」
こんな私が敬愛する、心・精神のプロフェッショナルである先生に、会話の中で何気なく聞いてみたのです。「私は、最近、自分が嫌いで不平不満だらけです。先生は、様々な方々のカウンセリングをして来られたと思うのですが、先生ご自身は、こう、何かに不満とかはないのですか?」
すると、ほんの少しだけ間を置いた後に、穏やかな声で、そして、語尾を少し伸ばして、次のような返事が来たのです。
「足りてますね」
この言葉に、私は何とも言えない感覚を覚えました。初めて食べる食材を口にしたときのような感じでしょうか。うぉ!決して難しい単語でもないのに、今まで聞いたことはあるだろうに、なぜだか、初めて聞いた感じ、自分の中には存在しない何か・・・
足りてるですと?直感的に、無いものを憂える私とは真逆の思考だと思いました。あるものを評価するというか。しかし、”失われたものを数えるな。 残されたものを最大限に生かせ。” という言葉とも何か違うような。ここで、更に先生は続けます。
「満足とは違うんですよね~」ここで、私は思わず「分かります!」と言ってしまったのですが、本当は、この先の言葉を聞きたかった。今になって非常に後悔しています。
でも、その時、本当に違いは分かった気がしたのです。満足は、ないものが満たされると生じるもので、足りてるは、そもそもそこにあるもの、自分が持っているものに充足される。私が考えるものとは次元が違う奥深さがある。
「足りてるって思うには、自分と自分の周囲の事柄について、不満を持ち文句を言う私とは比べ物にならないくらい正確に捉えていないといけませんよね?」と聞き返しました。これに対して、先生がどう反応したかは覚えていないのですが、続けて次の質問をしました。
「足りてないって最初っから言えたのですか?何か言えるようになった経緯があるのですか?」
私とは、次元が違う周囲の把握、最初っから、そうなれるはずはない!と思ったのです。いや、何とも真似がしたいから、経緯が知りたい!と思ったのです。この質問に対して、先生は、先生のお師匠の話をしてくださいました。お師匠は、先生と同様の資格を持った僧侶であるとのことでした。心と精神のプロフェッショナル、科学的なアプローチに加えて、宗教の達人とは・・・
その僧侶の方が、先生に対してどのように接して来たかを教えて下さいました。多くの人々と接し、心を引き出すその過程の奥深さを知り、当然ですが、心と精神のプロなんだと改めて思い知りました。当然、私がちょっとやそっとで理解できるものではないことも理解しました。
この会話の中で、私は先生から「待つこと」、「心の淵で繋がる」という言葉も頂戴したのですが、「足りてます」が衝撃的すぎました。家に帰り、反芻作業をし徐々に、言葉や概念が自分のものとなって行きます。
余りにも洗練された「足りてますね」という言葉
見事すぎる「足りてますね」という言葉、洗練されていて、私の考え方を180度変えたこの言葉、サッと仏教用語で調べてみると少欲知足、吾唯足知などの言葉がヒットしました。
こういった言葉の解説を読みつつ、自分の足りているものに思いを馳せてみました。すると、結構、行けてることに改めて気づかされます。視力は出ていないけど、光は感じられる。足は痛いけど、でも、歩くことはできる。食べられるし、モノに困っていることはないし、誇れる仕事だし、大切な人は元気だし・・・うんうん、よい塩梅です。
でも、一方で、先日まで私が囚われたいたものは何だったのか?という興味も湧きました。不平不満は、渇望する意味で人間の大きなエネルギーの一つだとも思います。人のために、奮闘する中で生じる様々な不平不満や不安は、一体なんなのか?私は、自分が可愛いと思う類の人間ですが、自分よりも他人のために粉骨砕身取り組んでいるのも事実。このアンバランスな状態は、それはそれで興味があります。
私は一体何なのか?「足りてますね」という私にとっての未知との出会い、少しだけ自分を理解できた気がします。
心に浮かんだ絵は、水の呼吸 拾壱の型 凪
この「足りてますね」という言葉を必死に考えている時に、頭に描かれる風景があります。それは、鬼滅の刃、水の呼吸、拾壱の型 凪です。富岡義勇オリジナルの技ですが、アニメにおいて、この技を繰り出すときの、周囲がサッと静寂に、穏やかになるあの描写が、私にとっての「足りてます」というイメージとぴったり合うのです。
周囲を完全にコントロール仕切るあの技の特徴、すなわち、自分と周囲を正確に捉えきる把握能力、いや、把握仕切らずとも、今の私には”言語化できない力”が静寂を産み出しているのかもしれない。そして、欲に心乱されない、足りているものが全て揃い、心が穏やかになり、あの静寂が訪れる。
私は、自分の心だけコントロールできればいい存在です。でも、心と精神のプロである先生は多くの方々と対峙される。そりゃ、私には拾壱の型 凪は打てないですよ。
それでも、私は前に進める気がしました。感謝しかありません。