チコちゃんに叱られるをボサッと見ていたら、なぜ並木にイチョウが多いのか?というお題が出されました。答えは、イチョウの葉や幹が他の植物よりも多く水分を含んでいて、火に強いからということなのですが、ここで紹介された長岡安平さんの生き様に憧れました。テレビだけの情報で、深く調べたわけではありませんが、素朴に「いいな~」と思ったので紹介します。
近代公園の先駆者 長岡安平のイチョウに込めた思い
明治始め、ヨーロッパを真似て、都市の近代化を進めます。その中で都市の街路樹として、松、桜、柳を植えますが、うまく生育しない。そこで、当時東京市の一公務員であった長岡氏が、防災面を意識し火に強いイチョウを植えようと上司に提案します。これが明治30年ころ。しかし、時は日清日露戦争の時代、軍需拡大で街路樹に予算は出せない。
しかし、ここで多くの賛同者を得て、10年後の明治40年頃に企画書を上司に提出。しかし、イチョウの木の提案をしたにも関わらず、西欧の真似をすることが是とされた時代、外来種やイチョウを含め10種類の木を植えるように計画が変更されてしまいます。長岡氏はここでも心折れることなく、いざイチョウが必要になった時に対応できるように、イチョウの苗木を育て始めます。
関東大震災で、イチョウの防災力が認められる
そんな折、関東大震災が起きて65000人以上の方が亡くなってしまいます。並木の60%が焼失したそうです。そんな中、イチョウが延焼を防ぐなど、火に強いことが実証されたのです。実際に、震災イチョウとして今も当時のイチョウの木が残っているそうです。
その後の研究で、実際にイチョウが火に強いことが広く知られるようになり、防火機能をもった並木としてイチョウが植えられることが決まって行きました。しかし、長岡氏はイチョウが多く植えられて並木になった光景を見る前に83歳で逝去してしまいます。生前、長岡氏が植えた苗木たちが実際の並木に使われたそうです。
一人の強い意志が、形として人の命を守っていく
苗木を植えるという強い意志は、いったいどこから生まれたのか?なぜ、そこまで防災にこだわったのか?については知りたいところです。結果的に、長岡氏が貫いたことが、後世にイチョウ並木として形として残り、秋には黄金色の美しい風景を生み出しながら、防火林として人々の命を守ることになったわけです。
大勢の協力があったにせよ、一人の人間の意志、仕事が、美しくもあり命をも守る素晴しいイチョウ並木を後世に残したわけです。一人の人間として、本当に憧れます。