自分の命の意味について考えるとき、常に頭に浮かぶのはミドリムシや蛾とか。ミドリムシや蛾にも私たち人間と同じ命がある。彼らを見ていると、「死ぬ瞬間まで、生き抜いている」というイメージがある。
我々、人間は脳があるから、痛いとか、嫌だとか、感じたり、考えたりできる。でも、その分だけ、命を燃やし切るのが苦手なのではないか?と思う。死ぬ瞬間まで生き抜いている印象は受けない。
更に、自分の行動について、意味があるとか無いとか、好きとか嫌いとか、得意とか不得意とか、考えてしまう。自分で納得しないと動けない。実際に、納得した方が良い生き方という風潮もある。でも、自分たちの命そのものは、それほど複雑なものではないと感じる。脳は複雑なことを理解させてくれるが、命そのものは実際複雑ではないのではないか。
結局、その日その日に、出来ることをやるしかないのではないか。例えば、悩んでしまい自分の歩みを止めることもある。でも、これは命としては意味がないのではないか。自分の行動に意味があるかないかの判断をするくらいなら、前に進むべきだと思うのである。悩んで歩みを止めた時に命を落とすことも十分にあり得るが、それは命として最も不幸なあり方なのではないか。命を全うする上で、歩みを止めるような悩みは、全て無用なのではないか。(厳密に言えば、命を失う状況判断は悩むべきものだ。)
パラリンピックを生まれて初めて、真剣に見た。理念に、「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」というものがある。正直に言えば、パラリンピックを見て、自分の目の障害など、大したことないと本気で思えた。いや、パラのおかげで、今この文章を書いていると言っていい。
悩む「余裕」があるなら、前へ進むことを考える、いや、命ある存在として本能的に、悩まず前に進めるようにプログラムされているのではないか?それを間違った頭の使い方をして、無用なことに悩んでしまい、命の質を下げているのではないか。
ミトコンドリアや蛾は、「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」などと考えずに、死ぬ瞬間まで命を燃やしている。
こう考えると、無神論的実存主義者に行きつく。