オリンピックを見ていて思うことがあります。
鍛え抜かれた身体、恵まれた身体も重要ですが、メンタルもとても大切だとNHKの「超人たちの人体」という番組でも紹介されていました。物理的な身体の問題だけでなく、その身体を生み出すのには、メンタルがとても重要な役割を担っていると科学的に示された内容でした。非科学的な精神論が、様々な場面で持てはやされるわけですが、一定どこかで精神論が正しいと思える部分を、科学的に示したわけです。これが、精神論擁護にならず、徹底して科学的にスポーツが発展することを望むばかりです。
私は、アスリートの方々には敬意を持っているし、オリンピック理念や、スポーツは世界平和に繋がるという元サッカー日本代表監督の岡田武史氏の言葉も信じています。やはり、色々あってもオリンピックの開会式は見てしまうし、競技も見てしまう。スポーツには、私たちを元気にさせる不思議な力があると思っております。
我々、普通の人々に焦点を当ててみる
長々と前置きをしてしまいましたが、本題です。
アスリートは、特殊な職業です。ホルモンレベルでメンタルをコントロールし、物理的な身体をも、摂取する食事やトレーニング方法で作り上げて行く。この一連のアスリートの営みを、当然ながら、アスリートを目指す多くの人々は真似て行く。学校の部活や、巷のクラブに至るまで・・・正直、非科学的な根性論レベルの精神論から、より科学的でより合理的なスポーツになることは、人類としてある意味の進化なのだとは思います。でも、別の見方からすると、人間の進化に反する側面があると思うのです。
私が今回言いたいことは、正しく真似ればいい・・・という問題ではありません。
「ホモサピエンス全史」「スマホ脳」という有名な本によると、狩猟採集から農耕文化になり、現代に至るまで、様々な変化がありました。しかし、我々人間の脳は、「狩猟採集」時代のままだと言うのです。要するに、様々な変化に対して実際は脳は適応しきれていないというわけです。
アスリートは時代の最前線、我々は最前線ではない
アスリートは、トップになればなるほど、トレーニング環境が整えられ、もはや根性論さえも合理的に科学的に進められる。しかし、アスリートではない我々は、トレーニング環境は整えられない。何が言いたいのか・・・
それは、脳の適応に明確な差が生じるということ。
私は、アスリートは一流の環境でトレーニングを行うから、脳が適応できて、一般人は適応できないと主張しているわけですが、もしかすると、アスリート自体も脳が表面上適応できているが、実際は、脳に無理が生じている、結果的に進化にはなっていないかもしれない。いや、脳にとって不都合な刺激も含めて、その後、どう変化するか分からない部分まで考えれば、進化と言えるかもしれない。
少なくともですが、一般人は、十分な管理下のもとで、栄養、ホルモン、精神状態まで制御して行う現代のアスリートを真似ることはできず、その上澄みを真似ることは、結果的に、自分の体を痛めつけることになると思えるのです。適切な栄養、カロリーコントロール自体も、ずっと狩猟採集時代から、常に飢餓状態が当たり前の我々の身体からすると、恵まれた異常状態です。
筋肉をどうつけるのか?栄養、トレーニング方法まで管理するアスリート、でも、我々は、狩猟採集時代から栄養は不十分な状況で生存して来ました。十分な管理状態でなければ、脳が長い時間をかけて生み出した体をコントロールする仕組みとは、かけ離れた環境に身を置くことになる。ダイエット、理想的な体重、筋肉の付け方、睡眠・・・などは、本当に人間にとって、健康的で良いものなのか?
一般人とは、かけ離れた美男美女に我々は陶酔する。それと同じように、一般人とは異次元のパフォーマンスを行うアスリートに陶酔する。前提は、一般人である我々とはかけ離れているから。同じ人類なのに・・・実際、そのパフォーマンスを得るのに、膨大な時間、労力、そして、科学的な力を費やしている。
この前提が我々一般人とはかけ離れている。ということは、本当にそれが人体、人類にとって、健康的なのか?幸せなのか?メリットがあるのか?は疑いの目を持つべきだと思う。これは、スポーツが人類の発展に貢献するという人類全体の方向性の話であるし、もっと身近に考えて、我々一般人の1人1人の人生、生き方のQOLを考えると、真似しない方が良いのではないか?と考える。それほど、異質なものであるし、その姿を学校の部活動や地域での各種のスポーツ教室が追いかけるのは、誤っているとも思う。一般人は、所謂、生涯スポーツであって、アスリートではない。100年を生きるに相応しい肉体を手に入れるべきであって、金メダルを取るための身体ではない。