Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

 マルティン・ルターの言葉です。ルターは1400年代から1500年代に生きたドイツの神学者で、宗教改革で有名な方ですね。高校時代に、この言葉の日本語訳を聞いて、当時は当時で感動したのを覚えています。

 この言葉を今再び聞き返してみると、少なくとも日本の将来は、この言葉の意味を実践する人々の数で決まると感じます。日本語訳も微妙に色々とありますが、私の意図を一番反映した訳語で進めて行きたいと思います。

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は今日、リンゴの木を植える。

この訳語は、滅びることを確定的に解釈して、明日に対比して今日を明示しました。

 今の日本は劣化していると多くの方々が指摘していますね。明示していない場合でも、このままではやばい!とうい主張、雰囲気が充満しています。

 政治家、官僚を含め、多くの利権に関わる人々や、会社の問題意識の希薄な経営者や社員、そして市民も含めて、このまま行けば、日本はオワコンだと思っていますよね。

 にも関わらず、忖度、先送り、保身などによって、問題が解決しないまま進んでいます。未来の子供たちに負の遺産を残すことが目に見えています。いや、もっと最悪なのは、「まだ何とかなると思っている」可能性もありますが、より始末に悪いのは思考停止でしょうか。未来について、何も考えない状態なのかもしれません。

人口減少、高齢化、GDP減少、保険制度の崩壊、憲法改正、対アメリカ、対中国、AI時代、終身雇用終了、地球環境の変動・・・政治、経済活動、至るところで問題山積。このまま行けば、日本は終わると明確だと思うのです。

なぜ、市民は考えなくなったのか??

 首都東京大学の宮下与兵衛氏が、激烈な60年代安保闘争の後、暴力的な行為を学校から排斥するために学校での政治的な活動が禁止されたと聞きました。実はその後半世紀以上、学校では政治的な活動が行われなくなったわけです。半世紀以上ということは、下手したら三世代です。そりゃ、影響大きいですよね。

 問題は、政治的活動が広く解釈されて、主権者を育てる主権者教育まで停止したことですね。戦後間もない頃から始まったアメリカとソ連の資本主義と共産主義対立は、比較的緩やかだったと思うのですが、その後、日本が思った以上に共産化していると判断したアメリカが本気を出し、レッド・パージも激しくなる。

 学生運動が激化し、逮捕者、死者、大学閉鎖などが発生。私の考えとしては、激しさを増した暴力行為を封殺する方向性で、政治的な活動が禁止されたと思うのです。香港の学生運動も、あまり過激にやり過ぎては・・・と感じたのを覚えています。

 結果的に、学校では、本来禁止されている特定の政党などを応援する政治教育にとどまらず、主権者教育も行われず、政治に無関心となったと思うのです。私は政治に及ばず、社会そのものに興味を失い、スーパー無関心が増えたと思うのです。50年はなめてはいけないのです。こんな状況であっても、今日、リンゴの木を植える人々が居ます。問題意識を持ちながらも、打てる手を打っている人たちです。

堀江貴文氏、宮台真司氏の生き方

全く毛色が異なる方々ですが、それぞれ前向きに生きておられます。

 堀江氏は、”働く”から”遊ぶ”ことに重きを置く人生の再定義を訴えており、実際に遊ぶことで経済が回るように実験を繰り返しています。

 宮台氏は首都東京大学の社会学者ですが、劣化する日本の仕組みを明示しながら、劣化しきってからどう日本が立ち直るか?について多くのメディアで発信しておられます。

 細かい点は、無視してください。このまま行けば、滅びるビジョンを持ちながら、次なる手を考えて抜いて、実践するお二人。勿論、実践するとは言っても、堀江氏は実経済を回し、宮台氏は学者として戦っておられます。

 ジャンルは違えど、その違う分野において、リンゴの木を植える人々の数が、日本の今後を決める気がします。それぞれの場面で、忖度せず、声を上げ、アイデアを出し、人を繋ぎ、ムーブメントを生み、次の社会を創る存在に私はなりたいのです。

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